神道の霊魂観
神道の霊魂観について、近藤啓吾先生の『儒葬と神葬』(国書刊行会、平成二年)をもとに考えてみたいと思います。
中世の伊勢神道の典籍、神道五部書の一つである『御鎮座伝記』には、「人は乃ち天が下の神の物なり。心神を傷ることなかれ」とあり、同じく『宝基本紀』に「心は乃ち神明の主たり」と記されています。こうした、心に神が宿るという信仰は、吉田神道にも受け継がれました。それは、吉田兼倶が『唯一神道名法要集』に「一切の含霊は神に非ずといふこと莫きなり」と述べ、また祖先兼直の名を借りて著した『神道大意』にも、「心は則ち神明の舎、混沌の宮なり」とあることからわかります。その人のその人たる本質は、神より賜ったものであり、そのゆえに、わが心に神がいますと信じ、その人が死すれば、その神霊を神として祭ります。さらに、大己貴尊が多年経営された国土を天孫に献じ、みずからは大和の三諸山に社殿を造営して住まれたという、『日本書紀』神代巻に見える物語は、さらに一歩を進めて、大己貴尊がみずから神霊を祭られた事実を述べたものと解釈され、江戸時代の垂加神道に大きな影響を与えることになりました。
中国の帝陵は、わが国の古墳のように、平地に巨大な人工の丘を築いたものでした。その墳陵の上に寝廟があり、その前に祠廟がある姿は、豊臣秀吉や徳川家康の墓所が、背後の山の頂や中腹にあり、その麓に社殿を設けている姿に類似しています。しかし一方で、わが国では、昔から山を神として崇める風習があり、京都の上賀茂神社や近江の二上神社、多賀神社など、社殿の外に神体山のある古社は少なくありません。大和の大神神社は、山そのものが神体であり、山麓に拝殿のみが設けられています。遺骸を高い所に葬る例はすで吉田兼倶を祀った神龍社に見え、豊臣秀吉を祀った豊国社や徳川家康を祀る東照宮、保科正之を祀った土津神社において、墓所がその背後の山に設けられていることには、古来の山を神とする信仰が存しているとみることもできるでしょう。
山崎闇斎は吉田家伝承の三輪山の奉祀の伝えを知り、これを根拠として自身の封霊を行いました。しかしながら、吉田家の伝承を根拠にしたとはいえ、存命中にみずからの霊をみずから祭るということは、かつて吉田家にはなく、闇斎の創始の儀といってよいものでした。跡部良顕は『神道喪祭家礼』の中で、「神道ヲ尊信シ、深ク志アル者ハ、存生ノ時ヨリ吾神霊ヲ封ジ置テ毎日拝スル故ニ、死シテ後モ子孫コレヲ祭ルナリ。存生ノ時奉ゼヌ常人ノ神体ハ、死シテ後、早速神体勧請ノ伝ヲ受タル神職ノ者ヲ頼ミテ、右ノ通リノ箱ニ奉ジテ祭ルベシ。……古ヨリ神道ニテハ、吾神霊ヲ奉ジオケバ、先祖ノ神霊モ残ラズ附祭ニシテ、一所ニ膳ヲ供ヘ祭ルコトナリ」と述べ、生前または死後ただちに、神霊を祀ることの大切さを指摘しています。
他方、平田篤胤は『霊能真柱』において、「現身の世の人も世に居るほどこそ如此て在ども、死て幽冥に帰きてはその霊魂はやがて神にて、……そは黄泉に往かずば何処に安在てしかると云ふに、社また祠などを建て祭たるは其処に鎮坐れども、然在ぬは其墓の上に鎮り居り、これはた天地と共に窮尽る期なきこと、神々の常磐にその社々に坐すとおなじきなり」と、死後の霊魂は、神社または墓に永久に鎮まることを述べています。
こうした神道家の霊魂説から、祖霊舎に祀られる霊璽、遺骨を納めた墓地、そのいずれにも霊魂は鎮まり、両方の祭祀が大切であると考えられます。
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