木曽御嶽信仰と御嶽山登拝

  木曽御嶽信仰の歴史

 木曽の御嶽山(3067メートル)は、かつて山麓周辺の人々が「おのたけ」、「王の御嶽」(おうのみたけ)と尊称し、後に「おんたけ」と呼ばれるようになり、近世になって木曽御嶽信仰が全国的に普及し、これが公称になりました。当初は木曽義元が鳥居峠から戦勝を祈って遙拝したことに見られるように、山麓から拝する霊山でした。 

 民間信仰としての御嶽信仰は、道者と称する所定の重潔斎を経た山麓諸村落の人々による御嶽登拝の行事として行われました。その指導的位置にあった黒沢村神主武居氏と王滝村神主滝氏は修験者の出自とされ、山麓の諸村落の郷士達を中心とした組織を持っていました。尾張藩の儒学者・松平君山が宝暦3年(1753)に著した『吉蘇志略』によると、黒沢・王滝ともに里宮の祭礼が6月12日・13日にあり、御嶽山に登る者は4月から75日間の潔斎に入り、祭礼の翌日6月14日に神主の先達のもとに各里宮を集団で出発、黒沢口登山道を経て中腹に一泊して翌朝未明に起きて頂上を拝して下山しています。

 尾張国の人で修験者の出身と伝えられる覚明行者(1718~1786)は、天明2年(1782)、黒沢村の神官武居家に軽精進による一般参拝者の登拝の許可を願い出ましたが、数百年間の慣例を理由に却下されました。しかし天明5年夏、無許可で信徒大勢を連れて頂上登拝を強行、以後も武居家の報告を受けた藩庁や代官所の注意を振り切って登拝を続け、登山道の改修にもあたりました。黒沢村民にも協力者が現れ、天明6年覚明行者歿後も信徒達が遺志を継ぎ、黒沢口開道の事業を完成させました。寛政3年(1791)6月、山麓10か村の役人らが連署して御嶽山75日の潔斎を軽精進に改め、登山の便をはかるよう武居家に請願、武居家は8月に寺社奉行所(代官山村家)に裁許を願い、翌寛政4年正月登山規定案を提出して正式裁許となりました。以後、御嶽登拝の希望者は武居家の先達のもと6月14日より18日までに限り、軽精進で登山を行うことになりました。

 御嶽山への軽精進登拝が許された頃、王滝口の新しい登山道開拓の念願を持ち、王滝村の与左エ門という知人を頼って来村した、江戸の修験者普寛行者(1731~1801)に、村民は始め黒沢村や福島の代官所への遠慮から非協力的でした。しかし行者の教化や村の経済への影響を知り、協力的に転じ、寛政11年(1799)に王滝口登山道が公認されました。

 登山者の増加により、両登山道は村民や信者達によって改修され、登山者相手の旅籠・茶屋等も設けられ、山道の沿線には信者達によって新たな小堂・神祠・石碑・石像等が奉祀されました。黒沢口登山道には古くから湯権現・大江権現・金剛童子・赤岩童子・平岩童子などが勧請され、王滝口が開かれて後は、黒沢口にならって大江権現(七合目)、金剛童子(八合目)が新たに勧請されました。また黒沢口大江権現にあった宿所に代わり中小屋、田の原小屋等が設けられ、登山者の宿泊の便宜が整えられました。山麓の旅籠では宿泊以外に、昼食・湯茶等を供し、金剛杖・浄衣・わらじ・たいまつ・振鈴・着ござ・山絵図・御影(御嶽大神の掛軸)等を販売していました。

 御嶽信仰の普及と共に、老幼婦女子の登山者も増加し、幕末には山駕籠が福島より黒沢口四合目八海山や王滝口三合目大又まで、馬は黒沢口三本松や王滝口神王原まで上り、講社等の人々に利用されました。登山者を案内し荷物を運ぶ強力(ごうりき)を黒沢・王滝・三尾・岩郷等の農家の屈強な若者が従事し、持子という山小屋への物資運搬者もありました。

 女子の登拝は寛政4年の定法には御湯権現までとありましたが、道路の改修とともに幕末頃には金剛童子の少し前に女人小屋なる堂が設けられ、そこまで登るようになりました。王滝口にも七合目に大江権現が祀られ、その上を女人禁制としましたが、明治5年(1872)、太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれました。

 御嶽講社は覚明講・普寛講の両派に分かれて発達したが、後に軋轢の誘因を廃するため講名の自由が認められました。両派たがいに融和に信仰の普及をはかったため、御嶽信仰は北は奥州から南は四国九州にまで広く一般庶民に普及しました。 

 御嶽信仰の特色のひとつに、御嶽講社の講祖、先達等の霊を御嶽山内に祀る風習があります。江戸時代の講社の多くは両部神道により行者あるいは菩薩号を追贈していますが、復古神道を奉じる講社は霊神号を諡号として贈りました。明治維新後、講社の多くが教派神道に属し、霊神号を広く用いるようになりました。

 御嶽登拝の講社は江戸や関東、尾張や三河から中山道を通じて入っていましたが、明治33年(1900)に名古屋・多治見間、明治44年(1911)に東京・木曽福島間、大正8年(1919)には中央本線全線の鉄道が開通、大正14年(1925)には乗合自動車の営業が始まり、講中にも利用されました。登山者数は明治20年頃に8千名程度でしたが、大正時代以降3万人を超え、昭和14年には6万3千人の記録(木曽福島駅調査)があります。戦後昭和30年代頃までは3万人程度、現在は6万人から10万人の登山者が訪れているといいます。

 戦後、王滝口は昭和41年(1966)に七合目田ノ原まで林道が開通、黒沢口は昭和43年に車道が五合目千本松原まで延び、昭和46年には六合目中ノ湯まで開通しました。このため講中の交通手段も鉄道から貸し切りバスへと変化してきました。

 昭和54年(1979)の御嶽山噴火により山頂登拝が2年間禁止され、59年の長野県西部地震では王滝村が大きな打撃を受けました。平成に入ると講中の高齢化やマイカー登山の増加、日本百名山ブームによる一般登山者の増加など、御嶽山登拝の環境や形態は少しずつ変容しています。


  岩手神明講の木曽御嶽山登拝

 御嶽山御嶽神明社(岩手県一関市花泉町)が講元である岩手神明講の木曽御嶽山への夏山登拝旅行は、毎回20名前後が参加して、貸し切りバスを利用して2泊3日ないし3泊4日の日程で、隔年で実施されています。

 最近の登拝旅行は平成25年(2013)7月21日(日)より24日(水)に開催されました。初日夕刻に御嶽山王滝口七合目の田の原山荘に到着。翌日午前3時半より登拝を開始して八合目でご来光を拝し、王滝口頂上の御嶽神社奥社、剣ヶ峰の御嶽神社頂上奥社本宮を参拝しました。午後は五合目の八海山神社で御神水を戴き、清滝で禊行を修めました。翌日は伊勢神宮と熱田神宮を参拝して24日早朝に御嶽神明社にて下山奉告参拝をしました。

 平成27年(2015)の登拝旅行は7月22日(水)より24日(金)の日程で実施しました。前年9月27日の御嶽山噴火に伴い、山頂登拝は叶いませんでした。しかし22日には藪原神社(奥谷一文宮司)を参拝する機会を戴くとともに、日野製薬株式会社の井原正登社長にお目にかかることができました。翌日には噴火犠牲者の慰霊と御嶽山復興の念をこめて王滝口御嶽神社里宮、田ノ原遙拝所を参拝後、雨の影響で水量の多い清滝で禊行を修めました。講員の女性から、「23日の朝から水行を終るまで御嶽山の水の中に包まれているようでした」との感想が寄せられました。最終日は善光寺に参詣しました。

 それ以前の記録では、御嶽神明社の現社殿造営後始めての登拝は、昭和57年(1982)7月17日(土)より23日(金)までの6泊7日の日程で実施されました。昭和57年は、同54年10月の御嶽山大噴火以来禁止されていた頂上までの登拝が可能となった年でした。7月17日夕刻に御嶽神明社にて祈願祭を行い講員一同参籠。翌朝は一ノ関駅7時55分発の東北新幹線やまびこ号に乗車(東北新幹線は同年6月開業)、大宮駅到着後上野駅を経由して新宿駅より特急アルプス号に乗車、塩尻駅を経由して木曽福島駅到着、旅館に宿泊。19日午前7時50分におんたけ交通バスで木曽福島を出発し、10時10分に黒沢口七合目中の湯着。登拝を開始し八合目女人堂で昼食。この日は頂上旭館宿泊。20日午前4時に御来光を拝し、頂上剣ケ峰を究め御嶽神社奥社で祈祷を受け、王滝口頂上奥社、奥之院を参拝して田の原に下り、清滝で禊行、里宮で神楽を奉納し、木曽福島の宿で直会を催行。21日は急行きそ号に乗車、名古屋駅を経由して宇治山田駅着。伊勢の外宮・内宮を参拝後、二見興玉神社を参拝し、鳥羽のホテルに宿泊。22日は西浦温泉に宿泊し、23日は豊川稲荷神社を参拝後、新幹線こだま号、東北新幹線やまびこ号を乗り継いで午後5時15分に一ノ関駅に到着しています。

 昭和60年代以降の登拝旅行は、貸し切りバスを利用して4泊5日の日程で実施されており、黒沢口登山道より登拝して王滝口田の原に下山し、清滝で禊行を行う登拝行事と、下山後は長野県をはじめ近隣の有名社寺への参拝や観光地見学を実施していました。平成9年(1997)の登拝旅行(7月25日~29日)では、台風の影響で頂上宿泊が困難なため、登拝道を急遽黒沢口より王滝口に変更し、頂上に宿泊せずに田の原に下山する行程となりました。これが契機となって、平成10年代以降は王滝口からの登拝が定着して現在に及んでいます。


  御嶽山三十八史跡巡り

 長野県木曽郡木祖村藪原に本社がある日野製薬株式会社(井原正登代表取締役)は、創業者の日野文平の「社業を通じて社会に奉仕する」という社訓を守り、御嶽保全のためのボランティア活動に力を注いでいます。

 その一つとして、代表取締役が理事長をしているNPO法人木曽ユネスコ協会が御嶽に残る地域遺産を保全するためのボランティア活動として、「御嶽山三十八史跡巡り」の整備事業を行っています。御嶽山麓、山中、頂上周辺には歴史的に由緒ある史跡として、御嶽蔵王権現三十八座のうち現存する御嶽信仰ゆかりの霊場や、鎌倉・室町時代の領主木曽氏や江戸時代の山村代官が寄進した建造物・絵画、御嶽神社、御嶽講社によって建造された霊場、水行の滝(自然の滝、御嶽講社が作った人造の滝)、神秘的な霊域などが残っています。この中から、黒沢・王滝の御嶽神社宮司に三十八の史跡を認定、名称、所在地が分かるように石碑を建立したり、その由来を記述した朱印帳と特徴を表す朱印を作成して、「御嶽山三十八史跡巡り」の仕組みを構築しました。さらに、配布用のチラシ、パンフレットを作成したり、ホームページ(http://ontake38.com/)を開設して普及活動に力を入れています。 

御嶽山御嶽神明社

岩手県一関市花泉町鎮座 電話 0191-82-3382

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